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グロ嗜好

考えてみれば一度も書いたことが無い管理人の致命的ともいえる嗜好について。

二次元絵フォルダが600MBの大台に乗りそうなので、整理がてら片っ端から確認していたら、グロ絵フォルダが意外にも8MBしかなかった。もっとも、作家別フォルダが最上位に位置するので、ジャンルごとのフォルダの容量が小さくなるのは道理なのかもしれない。また、私の好きなグロ絵師は大概がお絵描き板にちょろっと描く以外では同人誌にしてしまうので、その所為もある。何気に追跡が難しいジャンルでもある。

でまぁ、久々に大量のグロ絵を見ていて、どうも私は、やられる側よりもやる側の描写が好きだということに気づいた。私の原体験はロボコップ1で主人公がショットガンでばらばらにされるシーンだったわけだが(当時は8〜10歳ぐらいだったと思う)、よくよく思い出してみれば、やられる側の壮絶な死に際よりも、その後も生きている加害者側に描写としての魅力を感じたようだ(別に殺人願望があるわけではない)。

何の映画だったか忘れたが、無表情のまま子供を押し倒して、その横っ面に銃を突きつけてドン、というシーンがあったのだが、あれなどはかなり良い。System of a downの歌詞にもそういったものがある。

個人的に、笑いながら、というのはどうにも好かない。殺し屋イチなどでは泣きながら殺しているが、あれも好きではない。結果としての殺人と、それに付随する嗜虐趣味というのがなんともツボなのであって、表情豊かなのはどうにもいかん。というわけで、脳姦絵などもあまり好きではない。

なんというんだろうなぁ。快楽としての殺人描写ってのがどうにも鼻につくんだ。嗜虐趣味は楽しんでいるのではないかという指摘もあるだろうが、あれは一種の手口であって、その違いによって人間を描き分けるというのが見ていてとても心地良い。

映画といえば、あー、タイトルが出てきてくれないが、ヤク中の殺し屋がドア越しにショットガンをぶっ放して女性の頭を吹き飛ばすというものがあった。これなどが良い例だろう。もっとも、その方法が確実だったというのもある。殺し屋は女性からしてみたら知らない人物なのだから、ドアを開けてくれるわけが無い。街中では人目につく。だったら、チャイムを鳴らして女性がドアの外を確認しようとしたときに外から強烈な一撃を叩き込んで終わらせてしまった方が手っ取り早い。結局、この女性は標的ではなくて、その標的の人物の同居人だったのだが、顔を吹き飛ばしてしまったために確認できず、片手落ちという結果になる。それがまた良いのだ。その殺し屋に実に似合った落ちぶれ方だからだ。殺し屋がその手口によって追い詰められていく姿はなかなかに見応えがあった。

殺し屋が殺す行為そのものは成功させた、というのが重要だ。名前が売れているという設定だけがあって、しかしそれを証明する前に主人公などに妨害されてはつまらないことこの上無い。それはそれでサスペンスとして完成しているのであれば良いのだが、単に主人公の凄さを証明しただけで終わってしまっている場合などはとんでもない。

拷問フェチなどもあまり見ていて面白いものではない。例えば国家体制ゆえにそういった行為が許されているのだ、という考えを視聴者あるいは読者に植え付けるのであれば有効だが、個人の趣味として拷問を描いても、悲惨なだけだ。それなら、カニバリズムを信じている人物の食事のシーンを淡々と描いてもらった方が良い。

それというのも、拷問の結果、何も得られないということを拷問する側が自覚している場合が多いからだ。証言を取るためならば、それはただの手段であるから趣味的なものを描き切ることはできない。

つまりは、感情を度外視した部分で、何かを得たと信じる者がその行為を完遂した結果どうにかなるのが面白いわけだ。快楽というかそういったものには、希望とか絶望とか、そういった形而的なものが見えないんだ。楽しいだとか悲しいだとかは、描写としていくらでも簡単に視聴者に伝えることができるが、いったいこの人物は何をしようとしているのか、という想像の部分となると、形而的なものが必要になってくるように思える。

こう書いてみて気づいたが、私はグロ描写があるシチュエーションが好きなだけで、グロ単体で好きとなると、それはデザイン的な面からの魅力なのだろう。まぁ、そんな個人的なことを長々と書いてみた。

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